
1973年(昭和48年)9月12日、庶民性あふれる街・大阪府豊中市庄内で生まれました。
ちょうど世界中が中東情勢に注目をし、「トイレットペーパーが足りなくなる!」と混乱した時代です。
2つ下の妹、3つ下の弟の3人兄弟の長男。

石川家は典型的な「団塊の世代と団塊ジュニア」の家庭です。
小学生のころは家に風呂がなかったので、毎日のように家族で近所の銭湯に通っていました。


1986年4月、関西創価中学校に入学。片道1時間40分の道のりを通学していました。
中学・高校では学校行事を陰で支える「整理班(現在は「栄光班」)」に入って、様々な学校行事の裏方作業に徹しました。
「校舎をきれいにすることは、自分の心を磨くことなんだ」と校内を掃除。掃除という行動を通して自分の使命の道を模索していました。

1992年、創価大学生物工学科に入学。
海洋生物を研究する一方で、中高時代から膨らみ始めた環境問題への関心から、環境保護のために何かできないかと考えるように。
他大学の環境サークルと活発に交流を重ね、全国に広がる環境NGO(非政府組織)の創設に携わり、海外での動物保護や植樹活動にも参加、環境問題の最前線で活動を続けました。


1996年に外務省入省後、中東地域の担当となりました。アラビア語の知識は全くないゼロからのスタート。しかし、持ち前の“負けじ魂”で猛勉強。総理大臣や外務大臣の担当通訳を任せられるまでに成長し、外務省ナンバーワンのアラビア語通訳に。
在シリア・在オマーン大使館に勤務し、2004年からは約1年半の間、戦後の混乱が続く在イラク・サマーワに着任。学校・病院の修復、浄水の整備など現場最前線の人道復興支援に貢献しました。 。

中東で8年間勤務後、帰国。国連安保理関連業務、日イラク関係業務に従事する傍ら、アラビア語の総理・外務大臣の通訳を務めました。2006年夏に勃発したレバノン危機では、日本の国連政策担当者として、安全保障理事会の停戦決議採択、即時停戦に尽力しました。

2009年11月退職。平和の最前線から、庶民の最前線・大阪へ。石川の挑戦が始まりました。
大阪府内全市区町村を回り、企業や施設の視察、文化人との対談などを行う「トークラン・プロジェクト」を実施。
特に、日本一失業率が高い大阪の雇用の実状を改善したいと、ジョブカフェやハローワークを積極的に視察・調査。失業者へのセーフティーネット(安全網)の整備などを提案しました。
石川は、“大阪の今”を、様々な角度で見つめ、大阪の抱える課題、大阪が世界に誇る可能性を再発見しています。「雇用の拡大」「安心して暮らせる街」へ、大阪を元気にする、石川の「大阪未来プロジェクト」を加速させていきます。